2019年6月11日火曜日

【報告】「司法の独立」の危機は香港だけではない、日本も同様なのだと証明した6月4日付上告棄却決定&上告人のコメント

 本裁判1審の地裁判決->こちら
 地裁判決に対する2審の控訴理由書->こちら
 本裁判2審の高裁判決->こちら   

 本裁判の上告理由書->こちら そのエッセンスは->こちら
                                               上告人代理人 柳原敏夫
2019年6月日、薄い紙切れが最高裁から上告人代理人事務所に郵送されてきた。そこには、次の文句が書かれていた(紙切れ=最高裁決定の全文->こちら)。


たったこれだけ?! 

たちは、公文書偽造の真相を隠蔽した地裁判決(その批判は->こちら)とそれを追認した高裁判決(その報告->こちら)に対し、可能な限りの異議申立(その全文は->こちら)を述べたのに、応答はこれだけ!!
ここには本件事件の生の事実、生の法律に触れた記述は一言もない。
あるのは、定型の決まり文句。
これなら、AIすら要らない。
1秒で完成。
楽チンだなあ。
こんな楽チンで済むというのは、実は司法は要らない、粗大ゴミだとみずから証明しているようなもの。それがこの決定の唯一の存在意義。

本件事件は東大の公文書偽造(正確には虚偽公文書作成。その文書は->こちら)という犯罪が問題になったのであり、原告は首尾一貫して、その真相解明を強く求めたのに、
裁判所がやったことは、結局、行政がやっていることには、それがスキャンダルであろうが犯罪であろうが余計な口を挟まない、黙って知らない振りに徹する。
それをするのが「いい子」なのだとしっかり躾けられている。

司法のピラミッドの頂点に立つ最高裁がこのザマだから、下々の高裁、地裁も右ならえで、みんなすっとぼけて黙って知らない振りをする。地裁から高裁、最高裁まで、全員東大の応援団。これに対し、原告の応援団席はほぼカラッポ。怖がって、研究者は誰も近寄らない。
その結果、東大の不正も司法がしっかり守ってくれると枕を高くして、これからも不正に励めることになる。東大は人事不正、研究不正の天国になる。

そして、本件事件の原告(学問の自由が侵害された東大教授)のような真面目な研究者ははじき飛ばされる。はじき飛ばされたくなかったら、何も知らない、見ない、聞かない振りをして沈黙の中に入るしかない。その結果、研究者って何? それは隠れキリシタンのことである、と再定義されるに至る。かくて、東大を頂点とする日本の研究機関は隠れキリシタンの全盛期を迎える。ここにはもう、学問の自由は存在しない。

学問の自由が存在しないところには、表現の自由も存在しない。 表現の自由が存在しないところには、民主主義も存在しない。これは私たち一人一人の市民の命、健康、自由が脅かされるという問題だ。
知は誰のものか?--学問の自由の侵害を訴えた本件事件が根本的に問うたことはこれである。原発事故を経験するまで、原発の科学技術という知は原発を推進・管理する国家のもの、電力会社のもの、原子力推進の研究者たちのものと考えて疑わなかった。しかし、いざ原発事故で深刻な生命の危機を経験してみて、私たちは、原発の科学技術という知は何よりもまず私たち市民のものなんだと痛切に悟らされた。本来「知は市民のもの」だとしたら、知を研究する研究者は何よりも第1に、市民に対する説明責任を果すこと、市民に対して誠実であることが求められる。
言い換えれば、研究者は国家や大学等による介入、干渉により、「自ら行っている学問研究について市民に対して誠実であり、説明責任を果すこと」が歪められてはならない。これが研究者に「学問の自由」が保障される根本の理由である。

 学問の自由が国家や大学等により侵害されたとき、その回復を図ることを本来のミッションとする司法がそれを全くせず(ちょっとでも検討した痕跡すら残さず、一刀両断に問答無用と切り捨てた)、その反対にひたすら行政のお墨付きを与えるパピードッグに堕してしまったことは、三権分立の内部崩壊であり、民主主義の深刻な危機である。
 「司法の独立」の危機はひとり香港だけではない、日本も同様なのだ。

以下は、「 司法の独立」の危機を自ら身をもって体験した原告自身による最高裁決定に対するコメントです(そのPDF->こちら)。

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                                         2019年6月10日

柳田辰雄VS東京大学「学問の自由」侵害裁判の上告審における 
2019年6月4日最高裁判所第三小法廷上告棄却等の決定に対するコメント
 ――日本における官僚裁判官という制度の下での司法制度の統治と自治――

                                    上告人(控訴人・原告) 柳田辰雄
                                       
 本裁判は、日本における司法の行政からの独立、裁判制度のガバナンスすなわち統治と自治を検証するものとなりました。言い換えるならば、東京地方裁判所、高等裁判所と最高裁判所における裁判を通じて、民事裁判における裁判員制度の導入が必要であると痛感しました。
 官僚裁判官制度の下では、裁判における判決は、官僚が運営している行政側の意向を忖度したものとなり、司法制度の行政からの独立はありえません。
 これが、日本の裁判制度の現状です。

 1945年、日本は敗戦により太平洋戦争を終結させました。そして、1952年、アメリカ合衆国をはじめとする連合国諸国と間の戦争状態をサンフランシスコ平和条約の発効により、日本は、連合国諸国との「戦争状態」を終結させました。
 この期間に、アメリカ政府は新たな日本の裁判制度を成立させましたが、司法組織が行政から独立して機能する仕組みは制度化されませんでした。なぜなら、行政組織としての連合国最高司令官総司令部が日本の行政組織を管理するために、官僚裁判官という制度の下での司法制度は都合が良いからです。

 ところで、東京大学憲章では「その決定と実践を厳しい社会の評価にさらさなければならない」としていますが、憲法で定める「学問の自由」への制度的保障として大学自治が与えられているとしても、ある一つの講座における研究分野のあらたな選定が、将来の社会の公益性と関係しており、社会と没交渉ということはありえません。大学院の専攻における教育研究において、各講座は専攻内の教育研究の責任を明確にし、教授のそれぞれの専門分野における責任を明確にして当該分野における教育研究を究めることを主な目的として導入されています。したがって、それぞれの講座は、大学院が組織的に教育研究を行っていくために、各々の教員が自立して役割を分担しながらも組織的な連携を確保し、責任の所在を明確化するために制度化されなければなりません。
 東京大学大学院新領域創成科学研究科は、学融合を基本理念に、領域横断的な研究を対象とすることを目的として新設された学部をもたない独立した研究科です。したがって、新設するにあたっては、東京大学の学内外で基礎的あるいは先端的な研究分野を専門としている教員を募って発足しています。
 このような社会状況の中で、国際社会の様々な問題を社会科学の「学融合」という全体論的に、すなわち、研究対象を社会における相互依存と相互関係として総合的および包括的に理解し、諸問題を解決するための提言をしようと構想されたのが新領域創成科学研究科の国際協力学専攻です。

 学融合(トランスディシプリナリー)を社会科学方法論の超越科学として、1978年に著作において紹介されたのは西部邁東大教養学部助教授でした。そして、1983年には、この東大教養学部を礎として大学院総合文化研究科に設立されています。この学融合(トランスディシプリナリー)という社会科学方法論は、当時の教養学部の社会科学科で提唱されていた学際的(インターディシプリナリー)を超えて、類似の社会科学的な方法論により社会全体の動きを捉えられない限り、社会科学の社会における存在意義は限定的なものになるという着想によるものでした。
 このような東京大学における社会科学の方法論の歴史的な展開の中から、国際協力学専攻の制度設計講座は、社会科学の「学融合」により全体論的な方法論から、総合的および包括的に人類の国際社会の問題を理解し、その解決の糸口を捉えようとしていました。
 特に、制度設計講座の国際政策協調学は法、経済学および政治学に基づいて、これら学問の学融合のうえに全体論的に、各国の立法、司法および行政の統治と自治を検証します。さらに、この検証に基づいて、グローバルガバナンス、すなわち国際システムの「国際共治」を研究する分野として企画・構想されています。

 大学院大学における教育研究の基本の組織は、講座にあります。研究分野の変更はこの講座の存続に関わっており、大学における自治と学問の自由の基本に関わっています。
 今回の訴訟の根幹には、制度設計講座の唯一の教授であった私の意見や講座の構想を無視して、専門分野を異にする他の講座の教授達の内規から外れた手続きで、研究分野を選定して教授人事が行われたことにありました。
以 上



2019年6月2日日曜日

上告理由のエッセンス:民の不正追及はあっても官の不正追及はないのか――法の下の平等と日産ゴーンの3点の「重大な不正行為」の発覚――

2018年11月に最高裁に提出した上告理由書及び上告受理申立書のエッセンスは冒頭の以下の通りです。また、末尾はとそこで取り上げた東京大学の虚偽の公文書。

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2、民の不正追及はあっても官の不正追及はないのか――法の下の平等と日産ゴーンの3点の「重大な不正行為」の発覚――


先ごろ、日産自動車株式会社(以下、日産という)のゴーン会長らの①.役員報酬の過少記載、②.日産の投資資金の私的流用、③.日産の経費の不正支出の3点の「重大な不正行為」が発覚し、ゴーン会長らの逮捕による刑事責任の追及が始まった。日産現社長は19日の記者会見で、この3点の「重大な不正行為」は「長年にわたる、ゴーン統治の負の側面と言わざるを得ない」と述べ、「残念という言葉ではなく、はるかに超えて強い憤りということ、わたしとしては、落胆ということを強く覚えております」と述べた。
 日産の一連の不正行為・犯罪と現社長の言葉は、本裁判の被上告人東京大学の本件教授人事をめぐる3点の「重大な不正行為」にそっくり当てはまる。すなわち、本件の3点の「重大な不正行為」は「長年にわたる、東京大学統治の負の側面と言わざるを得ない」ものであり、上告人もまた「残念という言葉ではなく、はるかに超えて強い憤りということ、わたしとしては、落胆ということを強く覚え」ずにはおられない。日産事件のごとく民の不正追及が裁かれるのであるならば、東京大学のごとき官の不正追及もひとしく裁かれるべきである。それが不正追及に関する法の下の平等である。民の不正だけが裁かれ、官の不正が見逃されるのなら、不正追及も茶番にすぎない。
 しかも、日産事件は「これまで検察当局に情報を提供するとともに、当局の捜査に全面的に協力してまいりましたし、引き続き今後も協力してまいる所存です。」(日産のコメント)と、地検特捜部と司法取引した日産の全面的な協力のもと真相解明が進められているのに対し、本裁判では、本件教授人事の関係者は被上告人東京大学関係者からの報復をおそれ、上告人の情報提供要請に対し全面的非協力的な態度に出たため、真相解明は著しく困難な状況にある。にもかかわらず、被上告人東京大学は、上告人の追及に対し、致命的なミスを犯した。それは上告人が、本件教授人事をめぐる第3の「重大な不正行為」(手続違反③)の中で、分野選定委員会の架空の会議の中で分野変更の審議・承認がなされたという虚偽の報告書(公文書)(甲18の3)を作成されたと、当該公文書の作成者に虚偽公文書作成罪が成立すると主張したのに対し、被上告人東京大学は単に「否認する」と答弁しただけで、身の潔癖を晴らす反論を何ひとつしなかったことである。なぜなら、大学の自治の根幹は大学の教員人事の自治にあり、それゆえ、教授人事の中で虚偽公文書作成罪が成立するようなことは大学のガバナンスとして到底あり得ない。従って、「教授人事の中で虚偽公文書作成罪が成立した」という上告人主張に対しては、当該犯罪の実行者として名指しされた当事者(被上告人東京大学の教授2名)がもし身に全く覚えがないのであれば、当該上告人主張は無実の者を虚偽の主張をもって貶める誣告に相当する名誉毀損であるばかりか、被上告人東京大学にとってもガバナンス失格の烙印を押されたのも同然の名誉毀損であるから、断じて容認できない筈である。従って、通常なら断固として反訴なり名誉毀損の刑事告訴なり積極的な反論に出るのが当然である。しかるに、本裁判の被上告人東京大学も犯罪者として名指しされた当事者もこれらの行動を一切起さなければ、反論の声明・コメントすらもない。これは潔癖な人間であればおよそ考えられないような、尋常ならざる消極的な振る舞いである。この被上告人東京大学らの沈黙が雄弁に物語るのは、今回のゴーンと同様、被上告人東京大学も犯罪者として名指しされた当事者も「教授人事の中で虚偽公文書作成罪が成立した」という上告人主張に対し、まともに正面から反論し、身の潔癖を晴らすことができないことを自ら身をもって証明したということである。
 そこで、次に裁かれるのは司法である。もともと大学運営の法令順守に説明責任を負っている被上告人東京大学が、本裁判において「教授人事の中で虚偽公文書作成罪が成立した」という上告人主張にまともな説明を何一つ果さず、説明責任を放棄している以上、司法の本来の役割として、この異常な状態を正すため裁判所が、上記虚偽公文書作成罪の成否をめぐり、固く口を閉ざしている公文書作成者らを法廷に呼び出すという、事案解明のための訴訟指揮が求められるところ、本裁判の一審裁判所も原審裁判所もいずれも、上告人が再三再四要求したにもかかわらず、彼らの証人尋問を一切実施せず、正反対にこれに蓋をして、真相解明を意図的に封じ込めようとした。これでは虚偽公文書作成罪の成立に関して、裁判所による証拠隠滅を目論んだ訴訟指揮と非難されても弁解の余地がない。今、再び、最高裁判所に対しても、司法による証拠隠滅の加担(共犯)かどうかが問われている。それが本件上告事件である。

3、上告人の決意

常々、市民生活の上にそびえ立つ(言い換えれば井の中の蛙にすぎない)ことをひそかに自認していると、人々が昨今の最高裁判所に対し、「人権の最後の砦」であることを忘れ、行政のただの「忖度機関」に堕し、三権分立は文字通り絵に書いた餅にすぎないと失望し、司法に対する見直しをしている歴史を知らないかもしれない。上告人自身が、本訴の一審、原審を通じて、司法が行政のただの「忖度機関」に堕した事実を嫌と言うほど思い知らされてきた。しかし、司法の審級は実は四審制であって、最高裁判所も歴史の審判を受けざるを得ない。
上告人もまた、この真理を確信し、「司法の判断は歴史に耐えるものでなければならない」という立場から、暗黒の一審判決及び原判決に対し、敢えて上告し、歴史の証言を残すことにした次第である。
それにより、本裁判の真の裁きを歴史の判定にゆだねるものである。

         原告が虚偽公文書作成罪を主張する東京大学関係者らの公文書(甲18号証の3)

2019年6月1日土曜日

原告が虚偽公文書作成罪の成立を主張する東京大学関係者らの作成した公文書(甲18号証の3)

以下が、原告が、本裁判の中で、虚偽公文書作成罪の成立を一貫して主張し、その真相解明を求めてきた東京大学関係者らの作成した公文書(甲18号証の3)、
具体的には、教授人事に関わる分野選定委員会が、実際には開催されなかった、架空の会議の中で、教授人事の分野を変更する旨の審議・承認がなされたという虚偽の報告書(公文書)です。

その詳細は->こちら