2021年6月23日水曜日

【ブログ再開の言葉】なぜ今、学問の自由の侵害なのか(21.6.23)

 民主主義が幕を閉じ、独裁国家が完成するというのはお隣の香港やミャンマーの話だけではなくて、この私たちの国で進行中の話だ。
ただし、この国の光景は香港やミャンマーのように市民に対する公然の強権的な弾圧や抑圧ではなく、このたび開示された森友学園の財務省決済文書改ざん問題の「赤木フィアル」が示すように、もっと陰険で、陰でコソコソ、そしてジワジワと抑圧が進められる。
その結果、私たち市民の知らない間に、民主主義の基盤・中核部分が破壊されていき、民主主義から独裁体制にじわりじわりと移行する。
その民主主義の基盤・中核の1つが、今日の文明社会の科学・技術・文化を担う知識人、研究者、技術者たちの市民的自由とりわけ彼らの発言の自由、表現の自由。それが学問の自由と言われるものだ。
彼ら知識人、研究者、技術者たちが帰属する組織は「言うことを聞かなければココから排除する」と恐怖心をもって彼らを制圧し、メシを食うためには発言の自由、表現の自由は押し殺さなければならないことを悟らせる。
その結果、彼ら知識人、研究者、技術者たちは自分たちに発言の自由、表現の自由があったことを忘れる「歌を忘れたカナリア」になるか、忘れずにそれらの自由は心の奥にしまい込んだ「隠れキリシタン」のいずれかになってしまう。
これが権力者にとって理想的な、強権的な弾圧や抑圧が見えない、臭わない、痛みもない独裁体制である。
いま、この国で進行しているのは、放射能災害のような、見えない、臭わない、痛みもない「理想的な独裁体制」だ。

この息が詰まるような「理想的な独裁体制」にノーという声をあげたひとりが4年前、東京大学による学問の自由の侵害を告発した柳田辰雄東大教授(当時)。そして、今月、筑波大学による学問の自由の侵害を告発した平山朝治筑波大教授。
彼らは、知識人の市民的自由の大切さを、単に象牙の塔の教壇の上から語るのではなく、現実の場で勝ち取るために象牙の塔の外に出て、提訴という行動に出た。
それは市民にとっては迂遠な、無関係な雲の上の出来事に写るかもしれない。
しかし、それは「歌を忘れたカナリア」になることも「現代の隠れキリシタン」になることも拒否した、「歌を取り戻すカナリア」の出現である。
かつて、炭鉱事故を察知するために坑内に「カナリア」が置かれた。「カナリア」はいち早く炭鉱事故を察知し、その危険を訴えたから。
学問の自由の侵害を告発した彼らもまた民主主義の事故(独裁体制)を察知するために社会に出現した「カナリア」である(
)。
彼らが目指すのは、彼ら自身の人権の回復にとどまらず、私たち市民にとってかけがいのない、人が人として尊重される民主主義の基盤・中核を取り戻すことそのものである。 
                                                                             (文責 柳原敏夫)

)それは日本の戦前の歴史が証明している。戦前、京大と東大で起きた学問の自由の侵害事件(1933年の滝川事件、1935年の天皇機関説事件)を境に、日本社会は民主主義が幕を閉じ、独裁国家が完成する分岐点となった。
この2つの事件の歴史的意義を自らの体験も交えて強調するのは政治思想史家の丸山真男である(
『丸山眞男回顧談』ほか)。

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