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2、民の不正追及はあっても官の不正追及はないのか――法の下の平等と日産ゴーンの3点の「重大な不正行為」の発覚――
先ごろ、日産自動車株式会社(以下、日産という)のゴーン会長らの①.役員報酬の過少記載、②.日産の投資資金の私的流用、③.日産の経費の不正支出の3点の「重大な不正行為」が発覚し、ゴーン会長らの逮捕による刑事責任の追及が始まった。日産現社長は19日の記者会見で、この3点の「重大な不正行為」は「長年にわたる、ゴーン統治の負の側面と言わざるを得ない」と述べ、「残念という言葉ではなく、はるかに超えて強い憤りということ、わたしとしては、落胆ということを強く覚えております」と述べた。
日産の一連の不正行為・犯罪と現社長の言葉は、本裁判の被上告人東京大学の本件教授人事をめぐる3点の「重大な不正行為」にそっくり当てはまる。すなわち、本件の3点の「重大な不正行為」は「長年にわたる、東京大学統治の負の側面と言わざるを得ない」ものであり、上告人もまた「残念という言葉ではなく、はるかに超えて強い憤りということ、わたしとしては、落胆ということを強く覚え」ずにはおられない。日産事件のごとく民の不正追及が裁かれるのであるならば、東京大学のごとき官の不正追及もひとしく裁かれるべきである。それが不正追及に関する法の下の平等である。民の不正だけが裁かれ、官の不正が見逃されるのなら、不正追及も茶番にすぎない。
しかも、日産事件は「これまで検察当局に情報を提供するとともに、当局の捜査に全面的に協力してまいりましたし、引き続き今後も協力してまいる所存です。」(日産のコメント)と、地検特捜部と司法取引した日産の全面的な協力のもと真相解明が進められているのに対し、本裁判では、本件教授人事の関係者は被上告人東京大学関係者からの報復をおそれ、上告人の情報提供要請に対し全面的非協力的な態度に出たため、真相解明は著しく困難な状況にある。にもかかわらず、被上告人東京大学は、上告人の追及に対し、致命的なミスを犯した。それは上告人が、本件教授人事をめぐる第3の「重大な不正行為」(手続違反③)の中で、分野選定委員会の架空の会議の中で分野変更の審議・承認がなされたという虚偽の報告書(公文書)(甲18の3)を作成されたと、当該公文書の作成者に虚偽公文書作成罪が成立すると主張したのに対し、被上告人東京大学は単に「否認する」と答弁しただけで、身の潔癖を晴らす反論を何ひとつしなかったことである。なぜなら、大学の自治の根幹は大学の教員人事の自治にあり、それゆえ、教授人事の中で虚偽公文書作成罪が成立するようなことは大学のガバナンスとして到底あり得ない。従って、「教授人事の中で虚偽公文書作成罪が成立した」という上告人主張に対しては、当該犯罪の実行者として名指しされた当事者(被上告人東京大学の教授2名)がもし身に全く覚えがないのであれば、当該上告人主張は無実の者を虚偽の主張をもって貶める誣告に相当する名誉毀損であるばかりか、被上告人東京大学にとってもガバナンス失格の烙印を押されたのも同然の名誉毀損であるから、断じて容認できない筈である。従って、通常なら断固として反訴なり名誉毀損の刑事告訴なり積極的な反論に出るのが当然である。しかるに、本裁判の被上告人東京大学も犯罪者として名指しされた当事者もこれらの行動を一切起さなければ、反論の声明・コメントすらもない。これは潔癖な人間であればおよそ考えられないような、尋常ならざる消極的な振る舞いである。この被上告人東京大学らの沈黙が雄弁に物語るのは、今回のゴーンと同様、被上告人東京大学も犯罪者として名指しされた当事者も「教授人事の中で虚偽公文書作成罪が成立した」という上告人主張に対し、まともに正面から反論し、身の潔癖を晴らすことができないことを自ら身をもって証明したということである。
そこで、次に裁かれるのは司法である。もともと大学運営の法令順守に説明責任を負っている被上告人東京大学が、本裁判において「教授人事の中で虚偽公文書作成罪が成立した」という上告人主張にまともな説明を何一つ果さず、説明責任を放棄している以上、司法の本来の役割として、この異常な状態を正すため裁判所が、上記虚偽公文書作成罪の成否をめぐり、固く口を閉ざしている公文書作成者らを法廷に呼び出すという、事案解明のための訴訟指揮が求められるところ、本裁判の一審裁判所も原審裁判所もいずれも、上告人が再三再四要求したにもかかわらず、彼らの証人尋問を一切実施せず、正反対にこれに蓋をして、真相解明を意図的に封じ込めようとした。これでは虚偽公文書作成罪の成立に関して、裁判所による証拠隠滅を目論んだ訴訟指揮と非難されても弁解の余地がない。今、再び、最高裁判所に対しても、司法による証拠隠滅の加担(共犯)かどうかが問われている。それが本件上告事件である。
3、上告人の決意
常々、市民生活の上にそびえ立つ(言い換えれば井の中の蛙にすぎない)ことをひそかに自認していると、人々が昨今の最高裁判所に対し、「人権の最後の砦」であることを忘れ、行政のただの「忖度機関」に堕し、三権分立は文字通り絵に書いた餅にすぎないと失望し、司法に対する見直しをしている歴史を知らないかもしれない。上告人自身が、本訴の一審、原審を通じて、司法が行政のただの「忖度機関」に堕した事実を嫌と言うほど思い知らされてきた。しかし、司法の審級は実は四審制であって、最高裁判所も歴史の審判を受けざるを得ない。
上告人もまた、この真理を確信し、「司法の判断は歴史に耐えるものでなければならない」という立場から、暗黒の一審判決及び原判決に対し、敢えて上告し、歴史の証言を残すことにした次第である。
それにより、本裁判の真の裁きを歴史の判定にゆだねるものである。
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